(転載)「チェ・ヨンシクの北生活」 私の軍生活②

私が中隊生活を始めてからほどなく、冬季訓練が始まりました。

訓練は、映画で見たよりもはるかに大変でしたし、訓練が終わると体は地中に沈み込むかのようでした。

新入兵士だから、分隊全体が関心をもって世話してくれましたが、自分の体がしんどいのは、誰にも助けることは出来なかったです。

特に訓練中、ガスマスクを被って2㎞を与えられた時間内に駆け足で突破した後は死ぬかと思いました。 その時間中は誰も、私の武器や装具類を担いでくれることができませんでした。

それは、実戦時には私を助けるのではなく死ねという行為と同じだということが、分隊長、ベテラン隊員の考えだったからです。

それに鉄棒、平行棒6種は、軍人であれば必ずしなければならない基本動作であったため、それを身に付けるために脂汗を流しました。 ちなみに鉄棒、平行棒ができなければ、北では軍隊生活をしたことがない人であることが、ほぼ確実です。

そのように熱心に訓練していたある日、食堂でご飯を食べるために移動する途中、他の中隊と重なりました。 北の軍隊では、新入兵士は戦士の軍事称号から始まり、隊列では分隊の一番後ろに立つ事になります。 そのように食堂前で隊列を合わせて待っている間横の中隊を横目で見ると、奇妙なことを発見しました。 明らかにお父さん世代にあたる人が赤い戦士肩章をつけて、私のように後ろに真っすぐに立っているのでした。 あまりに奇妙で見ていると、その方も私の視線を感じたのか、振り返ると笑みを浮かべました。

慌てましたが、笑みで返した後すぐに1年先輩に話しました。 あそこに奇妙な戦士がいると… そしたら先輩が笑いながら、戦士生活をしに降りてきた軍官だと話してくれました。 その当時はどういうことか理解出来なかったけれど、その後自然に解りました。

その方たちは、北の人民軍の長い伝統に則って連隊長、政治委員以上の指揮官らが戦士生活体験を一年に一ヶ月以上ずつしていることを知りました。 その方たちは、少なくとも20年ぶりに再び戦士生活をするのです。 北では、通信部隊、軍医所のような専門知識を必要とする部隊指揮官には、兵士時代を経ない社会大学卒業生もいますが、戦闘部隊指揮官は100%、戦士からはじまり軍官学校を卒業した生粋の軍人たちです。 戦士生活中のその時のその方は、他の旅団の政治委員でした。

その時代を含めて、今まで過ぎた時間を振り返りながら感じたのは、先覚者たちの話からも、本を通じて学び悟ったものも多いが、直接体験し悟った、悟りの深さがはるかに深いということです。

今もその政治委員の笑みが昨日のことのように浮かび、腹減ったという私に、自分の分を半分ずつくれた分隊長とベテラン隊員が目に浮かびます。

そんな方が今日も北で生きており、そのような方の子が守っている北です。

初めて南に来た時、周辺には北に対してあまりにも知らない人たちだけで、とても寂しく惨憺たる心情でした。 短くは3ヶ月、長くは1年以内に崩壊すると放送メディアは一日中騒ぎ、人々もそういうことだと大部分信じていました。 幸いなことに、それまで多くの南北交流と最近の板門店首脳会談で、北に対し関心を持って正しく知ることが統一への基本的な姿勢だということを多くの人が知って行っています。

北の人の頭には角があるという荒唐無稽なウソも真実だと信じていたその時代を考えれば、今日の現実は明らかに進歩しました。 私ははっきりと確実に話します。 北にいる間、ただの一度も南の同胞たちの頭に角が生えているとか、軽蔑して打ち砕くべき対象として教育を受けたことはありませんでした。

学校教育も、家庭や近所のお年寄りの言葉も、いつか一つになるべき同族であり兄弟としました。(続)

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元記者。 過去に平壌特派員として駐在した経験あり。 当時、KEDOの軽水炉建設着工式で、「星条旗よ永遠なれ」をBGMとして意図的に流しながら薄ら笑いを浮かべていた韓国側スタッフに対し、一人怒りを覚えた事も。 朝鮮半島、アジア、世界に平和な未来が訪れんことを願う、朝鮮半島ウォッチャー。 現在も定期的に平壌を訪問している。