(転載)「チェ・ヨンシクの北生活」 私の軍生活④

北では軍事服務が公民の神聖な義務ですが、自身が願わなければ、行かなくても法的に何の不利益もありませんでした。

軍隊じゃなくても、工場、農場、炭鉱、青年突撃隊などの各分野でも高等学校の卒業生を必要とします。 そういった場所で懸命に仕事をすれば、軍事服務した人にも負けないぐらい認められて党員(朝鮮労働党)になったりもします。

ただ、あの社会ではどこに行っても除隊軍人か否かで多くの物事が変わってきます。 だけど、私のように生活除隊した人間は、端から軍隊に行かなかった人間よりも劣ります。 未婚女性も結婚相手が除隊軍人か否かをとても重要に捉えます。

もちろん、学校を卒業してすぐに大学に進む(大部分が理工系、教員大、師範大)青年たちは関係ありません。 情勢が緊張すれば、このような大学生も軍への入隊を嘆願もするし、実際に入隊した大学生も少なくありません。

そして北では、軍に行きたいと言っても誰でも送るわけではありません。学校の担任先生、所属する青年組織の保証と推薦が担保されなければなりません。 それと、眼鏡を掛けなければならないほど視力が悪いと軍隊にはいけません。 北の軍隊には眼鏡を掛けた兵士、下士官、初級指揮官はいません。

学校を卒業してすぐに軍隊に進む青年らが大部分ですが、様々な理由で社会生活を1~3年ほど送って入隊する場合も少なくありません。 それと、高等学校卒業後、各市、郡ごとにある高等物理学校(軍事学校とも呼ぶ)で2年勉強して軍に入隊する青年たちもいます。

軍事服務が3年経った兵士、下士官の中で、道徳と品性が正しく資質が抜きんでた軍人らを軍官学校に送ります。 高等物理学校を卒業して入隊した青年たちは、2年以上兵士生活を模範的に送ると大部分を軍官学校に送ります。

北の軍隊には営倉がありません。

60年代まではあったようですが、その頃の事はよく知らないし、いずれにせよ、私がいた頃にはなかったことは確実です。

また、北の軍隊も若き青春の集団ゆえ拳が行き交うことが無いわけではなかったです。

特に同期、1年差同士で殴り合いがありましたが、極めて稀な事です。

そして北の軍隊には、一方的、恥辱的で自尊心を傷つける上官による下級者に対する一方的暴行、殴打が起きえない体系です。 中隊には党細胞と青年同盟組織という政治的組織が存在します。 二つの組織は、すべての軍人たちが軍事服務を上手くできるように、目立たないように導いて助けてくれます。 また、中隊のすべての軍人たちを真の兄弟のように、中隊を一つの家庭のように維持するために真心で尽くします。 だからと言って、上官の暴行事件が完全に無いわけではありません。

どこにいっても、トラブル・メーカーは存在するものです。

私が軍に服務する時にも、ある小隊長が兵士に拳をふるったのですが、その小隊長は私のように生活除隊になりました。 到底そのようなことが許されない集団であり、そのような人間は耐え抜けないです。

それと北の軍隊では、自分よりも遅く入隊した軍人が先に分隊長になることも、先により職級が高い指揮官になることも多いです。 道徳的で正しい品性を持ちさらに優れた指揮能力を備えれば誰もが認めて、党組織も知ることになり、自身が立つべき場所に立つことになるのは当然のことと思います。

抗日パルチザン時代から、秀でた指揮官たちは自身よりもずっと先輩も部下として統率したし、そのような歴史をよく知る北の軍人たちとしては、おかしな事もないと思います。

北の軍隊に根ざす党組織、青年組織は一週間に一度ずつ生活総括をして、四半期、年末ごとに生活総括及び事業総括報告を行います。

生活総括では、自身が犯した過ちを同志たちの前にさらけ出して直していく決心を語るのとともに、他の同志たちの過ちも批判します。

事業総括報告は、組織責任者が組織が決定した課題をちゃんと遂行しているか否かを組織の前に報告し、成果点とよくできなかった点を一つ一つ確かめて、これからの方向と課題を提示し決定します。 また、組織は組織員の能力に沿って個別的に課題を与えます。

生活総括は学生の時から行いましたが、軍隊の時は心理的にかなり緊張しました。 学生の時は同い年の連中でしたが、軍隊では年の差が大きな同志たちとすると、それでも中には弾ける人が必ずいるもので、兵士が6~8年以上先輩になる分隊長に対し(気持ちが)ポッキリと折れるような批判をするのを、内心焦りながら見守りました。

自己批判がよくでき相互批判もよくできる人、あれもこれもよくできない人、自己批判はよくできるが相互批判は苦手な人もいれば、自己批判は聞き取れないほどに口ごもるくせに他人を批判する時にはとても大きな声で痛烈に批判し、開いた口が塞がらなくさせる人もいました。

私は独立中隊ではない大隊指揮部と共にある中隊で軍服務をしたので、2か月に1回程度分隊が食堂勤務をして食堂で料理も作ったりしました。

北の軍隊は軍官と兵士の食堂が別にあるわけではなく、料理も一つの釜から同じように作られただろうと指摘されないように腕前を発揮していた分隊長の事が思い出されます。

しかしその当時私は、軍官食堂と兵士食堂が別にあり食べるものも違う、そんな国があるとは知りませんでした。 軍隊ならばどこの国も全く同じだと思っていました。

私が短い軍隊服務をしながら一番嫌気がさす時は、南で米軍との合同軍事演習がある時でした。 そんな時は夜に靴も脱げずに寝たし、一日に「暴風」(非常招集)を3回もくらったこともありました。 非常招集から1次待避所まで5分間に到着しなければならず、米軍の一次攻撃が終わったと判断されればすぐに移動し、10分内に小隊坑道に入らなければなりませんでした。 距離は遠くはなかったのですが、1次退避壕も小隊坑道も核攻撃に対備して山の中腹の岩盤を穿って造った所なので、そこまで武器装具類を装着して必死に駆けて登ればもう、息が絶えるようでした。 それを一日3回、しかも夜寝ている時に2回もくらうと本当に腹が立ちました。

個人的にそんな時は、憎悪してもし足りぬ程、米国が心の底から憎かったです。 今は米国が訓練を中断することになり(訓練中断するに至った理由はみんなが知っていますが)本当に気分がいいです。

もちろん、正しく生きられなかった人生ですが、北の兄弟姉妹がさらに強くなり、平和に暮らし、幸福になっていってるので、あまりにも嬉しいです。

私の文を読むすべての人にはっきりと言います。

その地に生き、その地を守っている同族がどれだけ平和を愛するのか、どれだけ統一を願うのか、どれほど民族を愛し、先祖が渡してくれたその山河をどれほど愛する人々なのか、はっきりと知っています。(続)

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元記者。 過去に平壌特派員として駐在した経験あり。 当時、KEDOの軽水炉建設着工式で、「星条旗よ永遠なれ」をBGMとして意図的に流しながら薄ら笑いを浮かべていた韓国側スタッフに対し、一人怒りを覚えた事も。 朝鮮半島、アジア、世界に平和な未来が訪れんことを願う、朝鮮半島ウォッチャー。 現在も定期的に平壌を訪問している。