(転載)「チェ・ヨンシクの北生活」 結局お金の問題で脱北を

私が文を寄せるようになってから、多くの人が質問します。

「なぜ脱北する事になったのか」

南には3万名の脱北者が居るとされます。 彼らの脱北動機は各々違うでしょうが、私は彼の地で、とても耐えられない程の人でなしだったからです。

北で生活除隊(南での不名誉除隊と同じ)した人間は、社会の見る目がとても良くありません。

学校を卒業して、人生の第一歩から大きく傾いてしまい、私としては本当に難しくなりました。

そうなると誰とも出会いたくなかったし、話もしたくありませんでした。

もちろん、配置された職場にも出勤する日よりも行かない日がより多かったです。

時まさに「苦難の行軍」の時期で、食料購入のために欠勤する人も多く、私も食料購入に行くとか体調悪いとか言い訳しながら、働く事を考えませんでした。

今思えばあの当時、私が目を覚まして、一日にお粥1,2杯で生活しながらでも、生産計画を完成させる為に渾身を尽くしていた多くの人々と一緒に居たなら。 結局はそうできませんでした。

北では、私のように生活除隊や犯罪を犯し教化所(南の刑務所)に行ってきた人でも、新たに出発して「労力英雄」になり、労働党員にもなり、幹部にまでになった人も少なくありません。

しかし私は「足折れた鹿一カ所に集う」ように、近所の人たちから後ろ指さされる2,3名とつるみながら、新たに生きることを拒みました。

私のせいで心を痛め溜息を付いていた父母と、父母の顔に泥を塗るとなじっていた村の人々の姿が今でも私を苦しめます。

しかしより大きな問題は、時間が経つと軍隊に行っていた同級生たちと先輩後輩たちが表彰休暇、または私用のために出張に行ったついでに故郷に寄る時でした。

特に、同級生らが私の父母に挨拶しに来たり慰めるために私を訪ねてくる時はもう、ネズミの巣穴にでも入りたい心情でした。

出来るものなら他の地に引っ越したかったし、職場を遠い所に移したかったけれど、父母が反対するのでどうしようもありませんでした。

そうして無駄な歳月を送る中、どういう経緯か、中国に親戚がいるある人が不法に中国に渡って少なくないお金を稼いだという話を聞きました。 その時突然浮かんだのが、どうせならいっそ私も金でも稼がなければと、無駄な夢を見るようになり、母方の祖母から中国にいる姉妹の住所を聞き出すのに成功しました。 父母がそれに断固反対し、今からでも遅くはないから人間らしく生きろとすがりつきましたが、私の耳には何も入らず頭の中は他の考えだけでした。

また当時、家の事情もとてもよくありませんでした。

母の職業が名目は食料供給所の供給者なのですが、食糧供給が何年も滞っており、干した大根の葉のお粥で一日2食ずつしのぐのに我慢するのが辛かったです。 とはいえ、食糧供給の仕事がなくなってしまった母が、それでも豆腐商売をしたから他の家よりは状況が良い方でした。

どちらにせよ、人生の第一歩から拗れてしまったのだから、不法に中国に行って来ても更に悪くなることもないだろうと言うのが、当時の考えでした。

南に来ることになった脱北者の中で、初めから目的地が南だった脱北者はいくらもいないと思います。

私もまた、そんな考えは全くありませんでした。

父母があまりにも反対するので、告げずに知人と共に中国に不法越境して入ってみると、当時としては他の世界に来たように思えました。 一端は親戚を探してみましたが、随分前に他の地へ引っ越した後で探す方法がなかったし、いろんな人を経由することで密輸組織に加担することになりました。 密輸は世界のどの国にでも不法であり犯罪行為です。 ですが、当時の北では苦しい時期で、不法越境者や軽微な密輸犯は殆どが法的処罰をせず許してくれました。

なのに、南のTVに出演してあたかも大きな手柄を立てたかのように北での密輸入を自慢し、彼の地の人々が全てそうであるかのように言うのを見ると、惨憺たる気持ちでした。

私が南行きを決心することになったのは、中国の公安に捕まって新義州に送還された後、再び中国に越境した後でした。

新義州にいる不法越境者の集結所に到着してみると、そこには管理者たちである保安員が越境者らの居住地に電話して身分確認が出来れば、家族や越境者が属する組織で引き受けに来るよう措置を取りました。

私のような初犯は、引受人が来れば直ぐに出る事になるのですが、新義州が地元の越境者は明くる日にすぐ出ました。

しかし再犯の場合はそこで短くは3ヶ月、長くは6ヶ月ほど労働鍛錬をさせて送り出します。

すでに一度身分確認が出来ているため、何ヶ月か労働鍛錬させて送り出します。

そこだけでも最高記録が6回にもなる人もみたし、半分以上は2回目でした。

そこの保安員たちは、越境者の半分以上がそこに2回以上入ってきた人々なので、中には新入りが入ってきたら歓迎の挨拶をする仲にまでなった越境者もいました。

なのに南に来てみるとメディアでは、北に送り返されると政治犯収容所行きのうえ、運が悪ければ処刑されるといい、また、そんな嘘を教会や放送に出て、涙に鼻水まで垂らしながら「証言」する脱北者を見るに付け、怒りだけが湧き起こってきます。

父が私を連れ帰りに来て、いっしょに歩きながら一言もないまま、タバコだけ吸って溜息を付いていたのですが、その瞬間は、父母に対し本当に申し訳なく、済まないと言う心情でした。 それで父に、帰ったら、人間らしく生きてみると話してみると、タバコとライターを私の手に握らせて前を歩いて行きました。

だけど、一つ惜しいことがありました。

中国でもらい損ねた金があったんですが、当時の中国では大した額にはならないけど北では少なくない金額でした。

それで、家について母に会った後、親戚の家に行くと嘘を付いてふたたび中国に来てみると、金をくれなければならないその中国人も私が捕まった後に公安に捕まり、どうしようも方法がありませんでした。

だからといって、手ぶらで帰るのもどうかと悩んでいると、あるアメリカ系僑胞の教会長老に出会ったのですが、彼が言うには、南に行って何年か金を稼いで旅券を作ってまた出れば、大金を稼ぐ事が出来ると言うのでした。

当時、選択権は私にあり、私が拒否すれば何事も起こらなかったのですが、何度かは拒否していたら、ちょうど脱北者のスペイン大使館乱入事件が起きて、大々的な脱北者検挙が始まり再び捕まる状況になってしまい、結局その道を選択しました。

以上の文を見るように、はっきり言って、私は北の社会で正しく生きた人間ではありません。

「家で漏れる瓢箪、外でも漏れる」というように、南に来ても正しく生きて来られませんでした。

だけど、いかに正しくない人生を生きても、私に正しく生きよと教えてくれたあの人々と父母がいる彼の地を、私のような人間にも温かな眼差しと加飾ない真心がこもった笑みをくれた、あの善良な方たちが暮らしていく彼の地を絶対に忘れることが出来ません。

ある瞬間気づいて振り返ると、流れたその歳月は、私を、可憐で悲惨な人生だと話してくれました。

それでも、中年なってでも気づけたことを幸いに思いながら生きて行きます。

しかし、この心の中いっぱいに溜まった罪悪感は、死ぬまで抱えて行くつもりです。

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ABOUTこの記事をかいた人

元記者。 過去に平壌特派員として駐在した経験あり。 当時、KEDOの軽水炉建設着工式で、「星条旗よ永遠なれ」をBGMとして意図的に流しながら薄ら笑いを浮かべていた韓国側スタッフに対し、一人怒りを覚えた事も。 朝鮮半島、アジア、世界に平和な未来が訪れんことを願う、朝鮮半島ウォッチャー。 現在も定期的に平壌を訪問している。