(資料)「米国の対朝鮮敵対視政策撤回は朝鮮半島の平和と安定のための必須不可欠の先決条件」 朝鮮外務省軍縮・平和研究所 研究報告書(2020.6.25)

朝鮮外務省軍縮・平和研究所は25日、米国の対朝鮮敵視政策の侵略的で略奪的な本性を暴く研究報告書を発表した。

以下全文

この地に戦争の砲声が鳴ってから70年という歳月が流れた。

米国によって強要された朝鮮戦争は朝鮮人民に痛恨の傷跡と莫大な人的・物的被害をもたらし、血筋を分けた肉親たちが互いに分かれて住まなければならない民族分裂の苦痛は今この時刻にも続いている。

戦争の悲痛な傷跡を未だ抱えている朝鮮民族は、戦争のない平和な地で暮らしたい宿願をどの民族よりも強烈に持ち、その宿願を叶えるために長久かつ絶え間ない努力を傾けてきたが、当然の結実を見ることができていない。

その根底には、米国の対朝鮮敵視政策という黒い魔手が伸びている。

朝鮮民主主義人民共和国外務省軍縮・平和研究所は、前世紀の50年代に米国が起こした朝鮮戦争の真相を満天下に告発し、全朝鮮民族に計り知れない不幸と苦痛を強要している米国の対朝鮮敵視政策の侵略的であり略奪的な本性を暴くために、この研究報告書を発表する。

朝鮮戦争は米国の対朝鮮敵視政策の必然的な産物

朝鮮戦争は、米国が我が共和国を武力で圧殺しアジアと全世界を手に握ろうとする綿密な打算の下、計画的に準備し挑発した犯罪的な侵略戦争であった。

米国が、未だに朝鮮戦争を起こした彼らの侵略犯罪行為を覆い隠すためにありとあらゆる謀略資料を作り出しているが、歴史の真実は絶対に覆い隠せないし消せない。

百数十年前から、米国はアジア大陸の関門である朝鮮を侵略して自分らの支配下に入れることを国家政策とし、その実現のための対朝鮮敵視政策に必死になって執着した。

米国の支配層は、1845年2月に「朝鮮開放案」を議会に上程させ、1866年に「シャーマン」号侵入事件、1868年に「シナンドアー」号と「チャイナ」号侵入事件、1871年に大規模の武力侵攻事件を次々と起こした。

米国は1905年の「桂・タフト協定」の締結後、日帝の朝鮮占領と植民地支配を煽り立てて、将来、朝鮮を自分らの植民地につくるための策動を系統的に強行したし、第2次世界大戦の末期には朝鮮に対する占領計画を完成した。

1951年3月、当時、米極東軍司令官マッカーサーは、米国会上院議員ジョセット・マーティンに送った手紙で「欧州の将来はアジアで共産主義との戦いで勝つか負けるかにかかっている」と言いながら、「朝鮮の全地域を征服することにより、我々はソビエトのシベリアと南方を連結する唯一の補給線をばらばらに潰すことができ…ウラジオストックとシンガポールの間の全地域を支配することができるだろう。 その時になれば、我々の力が及ばない所などはどこにもなくなるだろう。」と書いた。(メイヤー「アメリカ現代史」P148)

一言で米国は、朝鮮をアジアという「肉の塊」を切り出す「短剣」とみなしたのである。

朝鮮戦争は、第二次世界大戦の黄金のシャワーを浴びて肥大するだけ肥大化した米軍需独占体にも切実に必要だった。

1948年末から始まった米国の経済恐慌は1949年に至ってさらに深刻になった。

工業生産は前年に比べて15%も減少して物価が急落し、機械・設備への投資が急激に減って1949年上半期だけでも約4 600個の会社が破産して失業者は600万人に増加、1948年9月 – 1949年3月に独占体の利潤は366億US $から284億US $に減少した。

朝鮮戦争が勃発すると、米国の出版物が「朝鮮という企業は経済を復活させた」、「朝鮮戦争の勃発は、第二次世界大戦が終わって以来、米国の商業を苦しめていた不況という亡霊を飛ばした」と特筆した事実だけでも、当時の米国には経済恐慌を克服するための「特別な処方」、戦争が必要であったということがよくわかる。

このように米国は、世界制覇戦略に従って朝鮮を「米国の軍事機構とアジア本土の間の唯一の接触点」「思想戦争の場」、世界制覇実現のための決戦の「試験場」、戦後経済恐慌の唯一の活路に選定した。

朝鮮戦争の準備を主導した米国の侵略的正体は、戦争計画の作成を通じてもよく分かる。

米国は、極東侵略のための計画を3段階に分け、第1段階は朝鮮戦争から始め(A)、第2段階は戦争の炎を中国に拡大(B)し、最後の段階にシベリアへ侵攻(C)することにし、作戦開始を1949年に予見した。

その内幕について、日本の雑誌「人物往来」(1964年9月号P67)は戦争の陰謀に加担していた旧日本軍大佐の言葉を引用して次のように暴露した。

「作戦は3段階に分かれていた。 まず38°線に米軍と南朝鮮軍を含む10個師団を集結して、東部と西部の2つの作戦区域を作る。 西部戦線はまっすぐ平壌に進撃し、これに呼応して、海軍、空軍の協力の下に、平壌の北側で上陸作戦を進める。 東部戦線は左翼を陽徳に定めて平壌と元山の連携を確保し、右翼は元山に向かってすぐに進撃する。 ここでも元山北側への海軍部隊の上陸作戦を進行する。 この2つの戦線が一緒に鴨緑江まで進撃して朝中国境を突破する。 ここまでが作戦の第1段階として、以前の日本軍の資料をもとに正確な計画が立てられていた。 次に、中朝国境突破と同時に作戦は第2段階に入り、日本軍とUN軍が参加する順序になっていた。」

綿密な打算と具体的な準備の下で、米国は1950年6月25日4時、ついに傀儡軍を煽り立てて朝鮮戦争を挑発した。

戦争前夜に米軍事顧問団団長のロバートは、「我々がなぜ6月25日を選ぶのか? ここに我々の深重な意図がある。 25日は日曜日である。 キリスト教国家である米国や南朝鮮は日曜日を安息日と定めている。 我々が日曜日に戦争を開始したということを信じる人はおそらくいないであろう。 言い換えれば我々が戦争を起こしていないということを人々に信じさせるためである」と言った。

米国は朝鮮戦争を挑発した後、自分らの侵略的本性を覆い隠すために狡猾に策動した。

6月25日、米国はUN安保理を招集し、朝鮮を「侵略者」に規定するUN安保理「決議」第82号をつくり上げたのに続けて、7月7日には同盟諸国の兵力を「米国の指揮下にある統一司令部」に配属させることを「勧告」し、米国にその司令官を任命することを「要請」し、UN旗の使用を「許可」することに関するUN安保理「決議」第84号を次々とつくり上げた。

これにより、朝鮮は戦争を起こした「挑発者」に、朝鮮人民の祖国解放戦争(朝鮮戦争)は「侵略」として誤導され、交戦当事者として「UN軍」が出現するようになった。

「UN軍司令部」がUN管轄の機構ではなく、ただ米国の戦争道具であることについては歴代UN事務総長らも公式に認めた。

1994年6月、ブトゥルス・ブトゥルス・ガリUN事務総長は、「『UN司令部』は、UN安全保障理事会が自己の管理下にある付属機構として設立したものではなく、それは米国の指揮下にあるようになった」と認めた。(朝鮮外交部長に送ったUN事務総長の手紙、1994.6.24)

1998年12月、アナンUN事務総長は、米国が朝鮮戦争に派遣された武力やその司令部に対し「私の前任者たちの中で誰一人、UNの名前と結び付けるよう、どの国にも許諾したものはない。」と述べた。(朝鮮最高人民会議常任委員会委員長に送ったUN事務総長の手紙、1998.12.21)

2004年7月27日、2006年3月6日、UNスポークスマンは、「『UN軍司令部』はUNの軍隊ではなく、米国が主導する軍隊」と確認した。

「UN軍司令官」を任命することができる権限もUNではなく米国政府が持っており、「UN軍」の帽子をかぶっている南朝鮮駐屯米軍の縮減や増強問題もUNではなく全面的に米国政府が決定する。

事実がこうであるにもかかわらず、板門店に未だUN旗が堂々とかかっているのは、UNの恥でしかない。

苛烈を極めた戦争は、偉大な領袖の指導を受ける英雄的朝鮮人民の奇跡的勝利に終わったが、朝鮮民族が受けた人的・物的被害は実に莫大であった。

特に、米帝が犯した天人共怒する大虐殺蛮行を、限られた紙面上で全て列挙できない。

1950年10月、信川の地に侵入した50余日の間に、郡人口の25%に達する3万5380人の罪のない住民を焼き殺し、貯水池に落とし殺し、銃で撃ち殺し、薪火で焼き殺し、生きた人の四肢を引き裂き殺し、妊婦のお腹を割いて殺した大虐殺蛮行は、米帝こそ人の皮を被った野獣、血を楽しむ狼だということを満天下に告発している。

公式の統計によっても、米帝は朝鮮戦争の時期に朝鮮で123万人余り、南朝鮮で124万人余りを虐殺し、化学兵器、細菌兵器まで使用して朝鮮民族を全滅させようとした。

1951年、米帝の蛮行を現地で調査した国際民主女性連盟調査団は、「米国が臨時に占領した地域で敢行した大衆的虐殺と拷問はヒトラーナチスが臨時に強占したヨーロッパで敢行した蛮行よりもさらに悪辣である」と暴露した。

米国は朝鮮戦争期間、「北朝鮮の78都市を地図上から完全になくしてしてやる」、「北朝鮮で掃いてもかかるものがないようにする」と公然と宣いながら、共和国北半部地域に太平洋戦争時、日本本土に落とした3.7倍に達する60万t近い爆弾とナパーム弾を注ぎ込んだ。

米帝の蛮行で戦争期間工場・企業所の建物5万941棟、各学校の建物2万8 632棟、病院、診療所をはじめとする保健施設の建物4534棟、科学研究機関の建物579棟、出版文化機関の建物8163棟、住宅207万7226棟が酷く破壊され、56万3755町歩の農地が被害を受け15万5500町歩の田畑の面積が減少した。

戦争が終わった後、朝鮮人民に残ったものは事実上、灰燼しかなく、米国は、朝鮮が100年を経ても再び立ち上がることはできないだろうと宣った。

上記の資料は、米帝国主義者こそ朝鮮戦争の挑発者、朝鮮人民の不倶戴天の敵であることを雄弁に示しており、米国の対朝鮮敵視政策が残っている限り、朝鮮半島にはいつになっても平和が宿ることができないことを立証している。

停戦協定を体系的に破壊した米国の犯罪的策動

朝鮮戦争が終わった後、米国の対朝鮮敵視策動を一言で特徴づけるなら、朝鮮半島永久分裂と我が国に対する絶え間ない核の脅威恐喝だった。

戦争の首魁トゥルーマンが第三次世界大戦と相違がなかったと言った朝鮮戦争は停戦協定で一段落、幕を降ろしたが、だからといって、終戦宣言されたり平和協定が締結されたわけではなかった。

停戦協定は締結当時、朝鮮半島のすべての外国軍隊を撤去させて恒久的な平和を確保することを目的とした過渡的措置に過ぎなかった。

米国は、朝鮮人民をなんとしても奴隷にし全朝鮮半島を併呑しようとする野望から、停戦協定に署名したインクが乾く前に停戦協定に乱暴に違反して情勢を戦争の瀬戸際へと追い込んだ。

停戦協定が発効されてから半時間にも満たない1953年7月27日22時20分頃、米軍は朝鮮側に向かって複数発の機関銃弾を発射し、それから数時間の間に数十分間隔で朝鮮側に向かって次々と砲弾を打ち上げた。

米軍は、共同警備区域を含む非武装地帯の中で拳銃と小銃だけ携帯する事にした停戦協定第1条第10項を無視して、自動銃、機関銃、ひいては砲、戦車、火炎放射器、ヘリコプターなどを配備し、朝鮮側警戒所と警備兵に向かって毎日のように無差別的な射撃を加えた。

1968年からは完全武装した戦闘集団を繰り出して、6.25戦争挑発直前に松岳山をはじめとする38度線地域で繰り広げた軍事的攻撃作戦を再現した。

1976年8月18日板門店事件、1984年11月23日の我が警務員に対する銃撃事件など、板門店共同警備区域内で米軍によって敢行された挑発行為は数多い。

米国は朝鮮からのすべての外国軍隊を撤退させ、朝鮮問題を平和的に解決することを規定した停戦協定第4条第60項を反故にした。

停戦協定第60項の規定により、朝米双方は停戦協定が効力を生じた後3ヶ月以内に上級の政治会議を招集し、朝鮮半島でのすべての外国軍隊の撤退と朝鮮問題の平和的解決方途を協議することになっていた。

1953年10月26日から板門店で開かれた政治会議招集のための予備会議で、米国は人為的な障害をきたし、妨害策動をこととして同年12月12日、会議場から一方的に退場することによって、政治会議は本会議に入ることも出来ず予備会議の段階で決裂した。

その後、朝鮮問題の平和的解決のためのジュネーブ会議が招集されたが、米国は会議を故意に破綻させた。

米国は、米軍の南朝鮮永久駐屯を合法化するために1953年8月8日、南朝鮮と「相互防衛条約」を締結する寸劇を広げた。

その後、朝鮮問題の平和的解決のためのジュネーブ会議が招集されたが、米国は会議を意図的に破綻させた。

1955年1月2日、当時の米統合参謀本部議長は米軍が世界制覇の実現において重要な戦略的意義を持つ南朝鮮に無期限駐屯し、引き続き朝鮮問題の平和的調整を妨げると言いふらした。

1975年11月、第30回UN総会で朝鮮半島における恒久平和のために「UN軍司令部」を解体することに関する決議が採択された以降、米国は米国・南朝鮮「連合軍司令部」の造作で永久占領の陰謀を露骨化した。

2006年3月初め、米国は朝鮮戦争の各参戦国の役割を強め、それらの国々を有事の際および作戦計画の樹立にはもちろん、細部的活動にも参加させて有名無実になった「UN軍司令部」を恒久的な多国籍連合武力機構に拡大再編成することに関する計画を出し、その実行に取り掛かった。

結局、停戦協定を平和協定に変えるための過程は挫折し、朝鮮半島では戦争でも平和でもない不安定な状態が持続している。

米国は、停戦協定第2条第13項B目に背置するように1953年8月、不法無法の西海「北方限界線」を一方的に引いてその周辺地域を世界最大のホットスポットにつくり、朝鮮に対していかなる種類の封鎖もできないと規定した停戦協定第2条第15項に反して「大量殺戮兵器拡散防止構想」という美名の下で、朝鮮に対する封鎖を実現しようと各方面から策動している。

米国は、朝鮮境外からの全ての武装装備の搬入を一切禁止することに関する停戦協定第2条第13項D目を破棄し、南朝鮮を世界的な武器展示場に変貌させた。

停戦協定第2条第13項C目により朝鮮国外からの武装装備搬入を監督統制する中立国監督委員会の視察チームを絶えず脅威恐喝していた米国は、1956年6月ついに視察チームを南朝鮮から追い出しその監督機能を麻痺させてしまった。

1957年5月、米国国務長官は公開席上で、「米国は、より現代的で効果的な武器を南朝鮮に送ることを考慮している」と公然と言い放ち、同年6月21日の軍事停戦委員会第75回会議に出てきた米軍側は、停戦協定第13項D目の放棄を一方的に宣言した。

米国は、1950年代末から1980年代に至る期間におおよそ1000基がはるかに超える核兵器を南朝鮮に搬入して南朝鮮を「NATO」加盟国に比べて4倍が超える世界的に核兵器の配備密度が最も高い地域に、核戦争勃発のための前哨基地に転変させたし、1982年3月には第14回米国・南朝鮮定例安保協議会なるところで南朝鮮に対する米国の核の傘の提供を公式化した。

21世紀の初めには「核戦略態勢の見直し(NPR)」を通じて朝鮮を核先制攻撃対象のリストにのせた米国は、核兵器と共に天文学的金額に及ぶ戦争装備を南朝鮮に搬入した。

米国は南朝鮮に「F-117」ステルス戦闘機、「F-15」、「F-16」戦闘機、「シャドウ‐200 」無人戦術偵察機、アパッチ攻撃ヘリ、新型「パトリオット」ミサイル、 「ストライカー」装甲車、誘導弾駆逐艦、「M1-A2エイブラムス 」戦車、「ATACMS」地対地ミサイル、地雷防護特殊車をはじめとする各種最新型攻撃兵器を配備し、高高度ミサイル防衛システム「THAAD」まで引き込んだ。

最近では、「F-35A」ステルス戦闘機、「グローバルホーク」高高度無人偵察機、早期警戒管制機をはじめとする数々の先端攻撃兵器を搬入して南朝鮮を文字通り殺人兵器展示場に転換させた。

米国は、停戦協定履行の最後の監督機構であった軍事停戦委員会と中立国監督委員会までなくした。

1950年代に中立国監督委員会の従属機構である中立国視察チームと停戦協定第2条第23項に規定している軍事停戦委員会の依存機構である共同監視チームを除いてしまった米国は、1991年3月25日、停戦協定の調印当事者でもなく、よって、停戦協定関連問題に対処するいかなる資格も権限もない傀儡軍将軍を軍事停戦委員会の米軍側首席委員に任命する茶番を広げた。

これにより、近40年間活動してきた軍事停戦委員会が自分の存在を終えることになり、事業対象を失った中立国監督委員会も自動的に凋落することになった。

米国は、朝鮮での敵対行為と一切の武装行動の完全な停止を保障することに関する停戦協定の序言と第12項も破棄した。

米国は、1954年に初めて南朝鮮と合同軍事演習「フォーカス・レンズ」を行った時から現在に至る期間、「フリーダム・ボルト」「チーム・スピリット」「乙支・フォーカス・レンズ」「連合戦時増援演習」「キー・リゾルブ」「フォール・イーグル」「乙支・フリーダム・ガーディアン」など、各種の戦争演習を絶え間なく行った。

演習の回数と規模も、世界のどの地域で行われる戦争演習をはるかにしのぎ、原子力空母、原子力潜水艦、核戦略爆撃機など、3大核戦略資産が朝鮮を狙った核戦争演習に総動員された。

練習の性格も、「年例的」であり「防御的」といううわべを脱ぎ捨てて、「斬首作戦」、「ピンポイント式打撃」、「平壌占領」などで、より侵略的・挑発的なものに変わった。

米国の核先制攻撃脚本は「作戦計画5026」、「作戦計画5027」、「作戦計画5029」、「作戦計画5030」、「作戦計画5012」、「作戦計画5015」、「作戦計画8044」、「作戦計画8022」、「作戦計画8010」、「合わせ型抑制戦略」、「4D作戦計画」など、より具体化された。

以上のように米国は、第5条第63項で構成されている停戦協定のすべての条項を一つ残さず全部破壊し、これにより停戦協定は死文化された鼻紙として放り投げられた。

米国の対朝鮮敵視政策と絶え間ない核威嚇・恐喝によって、朝鮮半島は任意の瞬間に核戦争が勃発しかねない世界最大のホットスポットと化した。

もし、我々が自衛的抑止力を非常に強化しなかったなら、朝鮮半島は数百回も戦争の惨禍に陥ったはずであり、第3次世界大戦という大災難がすでに起こったであろう。

戦争抑止力強化は我々の最終選択

この地で戦争の砲火が止まった後67年が経ったが、少しも変わっていないものがある。

他でもない、米国の対朝鮮敵視政策である。

我々を力で圧殺し、アジア太平洋地域で軍事的優勢を占め、ひいては世界制覇野望を必ず実現しようとする米国の策動は、日を追って一層露骨になっている。

共和国政府が、朝米間の平和協定を締結することに対する提案(1970年代)、新しい平和保障体系樹立の提案(1990年代)をはじめ数多くの平和提案と発起を出したが、米国はこの全てをあくまで拒否した。

1990年代後半、朝鮮半島の強固な平和体制を構築するために、我々と米国、中国、南朝鮮が参加する4者会談もやってみたが、米国の不誠実な態度によって何の結実も見なかった。

米国は、新しい世紀に入って我々が出した、戦争終結を宣言する問題を推進することに対する提案、朝鮮戦争勃発60年になる2010年に停戦協定を平和協定に変えるための協議を早急に開始することに対する提案も全て無視した。

かえって米国は、我が国を「悪の枢軸」、「暴政の前哨基地」、「核先制攻撃の対象」と公然と指定して、彼らの対朝鮮敵視政策を合理化するために、「テロ支援」、「大量殺戮兵器伝播」、 「人権弾圧」、「資金洗浄」、「貨幣偽造」、「麻薬取引」など、ありとあらゆる不法のレッテルを張り付けた。

はては、わが国家の「完全破壊」という妄言まで躊躇うことなく吐いたし、我々の思想と体制を転覆するために血眼になって狂奔した。

米国の対朝鮮敵対行為は、我々に対する核兵器の使用を公言し、核威嚇を加えた事実だけを通じてもよく分かる

朝鮮戦争の期間、我々に対する原爆使用を公然と唱えた米国は、停戦協定が締結された後も核威嚇をエスカレートさせた。

1968年1月に米帝の武装スパイ船「プエブロ」号が拿捕された時に米国が我々の核攻撃を検討した事実、1969年4月の大型偵察機「EC-121」が我々の領空で撃墜された時に核兵器を搭載した戦術爆撃機を非常待機させておいて、当時の米国大統領ニクソンが「朝鮮が反撃した場合、原子爆弾の使用を承認することにした」と宣ったことは、我が共和国に対する米国の核の脅威恐喝の氷山の一角に過ぎない。

1999年3月〜6月に米国が引き起こしたコソボ戦争は、第2の朝鮮戦争を仮想した不正義の戦争であった。

朝鮮半島と同様の自然地理的条件を備え米国本土からの距離も朝鮮半島と近似した以前のユーゴスラビアは、米国における新たな朝鮮戦争のための試験場であった。

NATOと共にいかなる作戦的意図もない無差別空襲を絶え間なく繰り返した事実、劣化ウラニウム弾と毒性細菌を伝播する大量殺戮兵器も躊躇なく使用したという事実は、米国が計画している第2の朝鮮戦争をうかがわせる部分だ。

2000年代に入って、米国は我々に対する核の脅威をさらに露骨化した。

2001年6月6日、ブッシュは「対北朝鮮政策声明」なるものを発表し、朝鮮が核査察の受け入れ、ミサイルの開発と発射中止、通常兵器の縮減など、米国の要求を受け入れない場合、核を含む軍事力を行使することがあると宣った。

2002年、米国は、朝鮮半島で核兵器を先に使用することができ、これらの場合に使う地下施設破壊用小型核兵器を開発すると明かすことによって、我々に対する核先制攻撃を既定事実化した。

2009年、米国は、41回米韓年例安保協議会で核の傘と、在来式打撃能力、ミサイル防衛システムなどの拡張抑止力を南朝鮮に提供することを明文化した。

我々に対する米国の核威嚇は、2017年に極に達した。

米国は、超大型原子力空母であるカール・ビンソン、ロナルド・レーガン、核戦略爆撃機であるB1B、B52H、B2A、原潜であるコロンブス、トゥーサン、ミシガンをはじめとする核戦略資産と最新戦争装備を南朝鮮とその周辺に投入して朝鮮半島を核戦争の瀬戸際に立たせた。

米国の核威嚇と対朝鮮敵視政策は、新たな朝米関係を樹立し、朝鮮半島で恒久的で強固な平和体制を構築するためのシンガポール朝米首脳会談が行われた後、さらにあくどく実施された。

我々が朝米間の信頼構築のために核実験と大陸間弾道ロケット試射の中止をはじめ、重大かつ意味ある措置を先制的に取ったことにもかかわらず、米国はこれに対応した措置で応えるどころか、大統領が直接中止を公約した合同軍事演習を数十回も行ったし、先端戦争装備を南朝鮮に搬入して我々を軍事的に脅かした。

我々の大陸間弾道ロケット迎撃を想定した迎撃ミサイル試験と大陸間弾道ミサイル「ミニットメン-3」、潜水艦弾道ミサイル「トライデント2D-5」をはじめとする各種ミサイルの試験発射を躊躇なく進行しながら、我々に対する核の脅威を最大化した。

新型コロナウィルス事態によって前例のない危機に直面している中でも、米国は4月、連合空中訓練、海兵隊合同上陸訓練を繰り広げ、我々に対する軍事的脅威を一時も緩めなかった。

世界的に朝鮮民族ほど核の脅威を最も直接的に一番長い間晒されてきた民族はなく、我が人民にとって、核の脅威は決して抽象的な概念ではなく現実的で具体的な体験である。

我々の大陸間弾道ロケットの迎撃を想定した迎撃ミサイル試験と各種のミサイル試射をはばかることなく行って、我々に対する核威嚇を極大化した。

我が民族は広島、長崎への米国の核攻撃の被害を直接受け、日本の人の次に多くの死傷者を出した民族だ。

原爆の恐ろしい惨禍を体験した我が人民にとって、米国が朝鮮戦争の時期に敢行した原子爆弾恐喝は、文字通りの悪夢であり、朝鮮戦争期間、朝鮮半島では北から南に流れる「原子爆弾避難民」の行列ができた。

家族が一緒に動くことができない多くの家では、家門の代を繋ごうとの一念で夫や息子だけでも南に避難に送った。

こうして生まれた数百万人にも及ぶ離散家族が今日、朝鮮半島の北と南、海外に別れて暮らしている。

米国の核威嚇を取り除くために、朝鮮政府は対話を通じた努力も国際法に基づいた努力もやってみたが全部水泡に帰した。

残った最後の選択はただ一つ、核には核で対抗することだけであった。

結局、米国が我々をあくまで核保有に進ませたのである。

これにより、核兵器と核の傘でいっぱいであり、唯一、朝鮮民主主義人民共和国だけが核空白地帯に残っていた北東アジア地域の核不均衡の状態は終わった。

諸般の事実は、朝鮮半島情勢激化の根源が米国の対朝鮮敵視政策と核威嚇にあるということを明白に実証しており、米国が朝鮮を敵に、交戦相手国に対する敵視政策を撤回しない限り、朝鮮半島で核戦争の暗雲は絶対に消えないということを証明している。

米国が対朝鮮敵対観念を必死に変えようとせず朝米交戦関係を維持しようとするのには、それなりの打算がある。

米国の極東戦略が「ニクソン主義」、「新太平洋主義」、アジア太平洋重視戦略、インド太平洋重視戦略への変遷過程で朝鮮半島の停戦状態は、米国の潜在的な敵を軍事的に抑制するのに悪用されてきた。

近年だけでも米国は、我々の「ミサイル脅威」をかけて高高度ミサイル防衛システム「THAAD」を南朝鮮に配備し、中国東北地域とロシア極東地方を手相をみるかのようにみることが出来るようになり、中距離より短い距離ミサイル撤廃条約破棄を口実に中距離ミサイルを我々の周りに配備する凶心を露骨に表わしている。

これによって朝鮮半島周辺での核軍備競争が起こるのは時間の問題となり、中露を抑制するための米国の軍事的な動きは、時間が経つにつれ、より露骨化されるようになっている。

このような状況では、米国の利害関係が朝鮮半島での停戦状態維持ではなく70年前の利害関係と一致するならば、第2の6.25が再び再現されない担保はどこにもない。

米国によってこの地で残酷な戦乱を強いられた朝鮮人民にとって、国家防衛のための強力かつ威力ある戦争抑止力は必須不可欠の戦略的選択になった。

我々が国家の安全を守り発展を担保するための戦争抑止力をさらに強化することは、誰も是非できない正々堂々たる自衛権の行使である。

70年に及ぶ反米対決の歴史は、いかなる自制や寛大さも米国の強権と専横、侵略と戦争策動を抑制させることはできず、むしろそれをさらに煽るだけだということを現実として示している。

米国が我々の政治、経済、軍事的圧迫を最大化しながら会話を云々することは稚拙な両面術策に過ぎず、留守番電話のように繰り返す非核化打令は、我々を武装解除させて侵略戦争の道を開かんとする強盗的下心の発露である。

朝鮮民主主義人民共和国国務委員会の金正恩委員長は朝鮮労働党中央軍事委員会第7期第4回拡大会議で、国家武力建設と発展の総体的要求に従って国の核戦争抑止力をよりいっそう強化し、戦略武力を高度の臨戦状態で運営するための新しい方針を打ち出した。

世界最大の核保有国であり唯一の核兵器使用国である米国が、我々に対する病的かつ体質的な敵視政策に執着しながら極端な核威嚇・恐喝をこととしている状況の下で、我々は米国が加えてくる持続的な核威嚇を制圧するための我々の力を引き続き養い、我々が選択したこの道から絶対に退かない。

歩兵銃と原爆の対決ともいえる過去の祖国解放戦争で、米帝を頭目とする帝国主義の群れに打ち勝った偉大な戦勝世代の英雄的気象と魂を受け継いだ我が人民と軍隊の勝利的前進を遮る者はこの世にない。

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元記者。 過去に平壌特派員として駐在した経験あり。 当時、KEDOの軽水炉建設着工式で、「星条旗よ永遠なれ」をBGMとして意図的に流しながら薄ら笑いを浮かべていた韓国側スタッフに対し、一人怒りを覚えた事も。 朝鮮半島、アジア、世界に平和な未来が訪れんことを願う、朝鮮半島ウォッチャー。 現在も定期的に平壌を訪問している。